Column

2011 . 3 . 11

日々設計の仕事をしていて、僕たちが日本人であることについて意識化することがしばしばあるけれど、その時にいつも思うのは、僕たちを取り巻く固有の文化や環境が日常の中で相対化されてしまって、正確に立脚点を見つけることが困難であるということ。例えば日本の歴史的建造物を視察してその良し悪しを議論することは、必ずしも日本の建築を議論することにはならない。身体性をきちんと睨みながら空間構成を考えていても、どこまでが先天的で人間の身体的特徴なのか、どこからが固有の文化に根差した後発的な特徴なのか分からなくなることを考えても、いつも絶対的な原点に立脚することは日常においてきっととても難しい。

ほとんど無防備なまでに日本の伝統的な何かを評価する論評を目にしたときにもそのことを実感する。あるいは日本で度々繰り返されて来た伝統論争も、基本的には日本の良さを見直そう!的な議論だから、少し見方を変えれば、ローカルであることは無条件に評価に値するのか?という気もして、ローカルであることの正確な立脚点はどこにあるのかとても気になる。

「日本人ばなれした○○○」(○○○は多くの場合、プロポーションや容姿関する言葉が多い)「ワインのようなお酒」「モダンな~」などは他者である欧米への羨望が生んだ言い回しや表現だと僕は思っている。ほとんど無意識に他者への羨望が日常となっているこの日本において、固有の文化をバナキュラーな視点として位置付け、そしてデザインすることは本当に難しいとつくづく思う。

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