Column

2010 . 4 . 23

 あるメーカーによる「ビールと間違えるほどのうまさ」というコピーはテレビや電車でよく見かけますが、ほとんどビールの味が分からない僕にとっては味覚という感覚器官の普遍性についていつも考え込んでしまうきっかけになる。

おそらく味は文化だ。文化は地域に根ざしたものであって、異なる地域に発生した文化は「違う」のであって「善し悪し」あるいは「優れている、遅れている」はない。ということは、味に「違い」はあっても「うまい、まずい」はないことになってしまう。たしかに他文化の味は、場合によっては我々にとってとても受け入れがたい味をしていることがあるから、議論の余地は無いように思える。一方でよりうまいものを求める傾向は確かにすべての文化に共通してある様に思えるからだんだん話がややこしくなる。つまりある文化圏の中で、歴然とうまいとまずいはある様に思える。よりおいしい料理を求めて食材や料理法が長い年月の中で改良を繰り返されて現在に至る食文化を思えば、その流れは常に「よりおいしく」を指向していることは間違いないから。
 例えばビールの味が分からない僕でも、旨いワインとまずいワインはあるし、過去の経験からその感覚に対して周囲に大きな差異がないことも分かっている。僕が旨いものはだいたい周囲の人も旨いと言う。根っこの部分では旨いまずいの存在しない単なる「味」あるいは「味覚器官による情報」が長い年月の中で、それぞれの文化圏において「旨い」を目指して体質の変化が起き、「情報の重み付け」が生まれる、ということなのか。それとも単なる「慣れ」くらいのことなのか。ドイツで生まれ育った人が何年、あるいは何代日本に住めば、日本のビールを「旨い」と言える様になるか、統計でもとれば分かるかな。

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