Column

2011 . 4 . 23

少し前、スタッフと現場に向かっている途中に妙なことを考えた。そこは相変わらずの何の変哲もない住宅が建ち並び、たまにバラックのごときスナックや店舗が極めて高い密度で軒を連ねている。その何の変哲もない、と見逃してしまいそうな建物の外壁は鱗の模様に施された左官仕上げや、装飾の施されたメタルワークや開口部周りで満たされ、きっと設計者と建て主のこだわりの集積がここにあるんだなと、思った。私達の設計する建築デザインとは向いてる方向が違うから、と簡単に片付けて今まで来たけど、意識して作りだしている「計画による産物」という意味では同じ土俵だなと(その意識の深さはともかくとして)。そこでふと、「建築に美はあるか」という主題が頭をよぎる。「美」とは作り出すものではなく、「作ってしまうもの」あるいは「出来てしまったもの」という具合に、常にその感想としての事後認識の世界なのではないか。しかもその認証は制作者本人ではない他者が与えるものではないかと。つまり、美は「計画による産物」では明らかにない。美とは、ちょっとした心の隙を狙って突如として自身の内面に「湧き出してしまう」ものだと思う。決して計画的に生み出すもの、つくり出すものではない。誰かがつくってしまったものが結果として誰かの心に「美」の感覚を湧き出させるかもしれない、という程度の儚いものだ。だからこそ、やっぱり建築には美がある。建築を目指す人生の中で事件となる何かを感じたその瞬間、その場の風や光やいろんなものが作用して、ため息がでたり涙がでたり、例えば突っ立ったまま動けなくなったとしたら、そこにはきっと美がある。だからその瞬間をただ待ち焦がれながら日々生活し、建築を作り続けていく。いつかどこかで、私達の設計した住宅を見上げた誰かが「あぁ・・」とため息を漏らしてくれることを願って。

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