Column

2013 . 10 . 21

ふと我が家の2階の天井を見上げたら、一部にうっすらと濡れた様なシミが出来ていたので、何年か前の巨大台風の大雨で、トップライトの通気スリットから雨水が浸入した時に天井内に侵入したのだろうと想像がついた。その時私はその流れて行く雨水の気分になって、どういった経路を辿ってそこに辿り着いたのだろうと考えてしまった。実際、雨水はとても複雑な経路を辿るため、なかなか人の推測通りに漏水場所を特定出来ない。しかし、水に意志はなく、唯一絶対的な重力と行く道を遮る物的作用(スポイト現象や素材の浸透性の違い)に従ってのみ移動するはずだ。それを複雑だと思うのは人の意識だが、自然の摂理には関係がない。そうだ、きっと科学者が考える最高の合理性とは、そういった事だろう。自然は誰に言われることもなく、最初から超合理的である。そこに人の意識は「合理性」という意味を与えた。ひとのやること、考えることは所詮その程度のことなのか。我々を取り巻くこの宇宙の摂理に我々の理性はもてあそばれている様だ。確かに、我が家の水槽でメダカを追いかけているウーパールーパーは、その水槽の外に家という殻があって、その外には山や川や海があることなど、知り得ない。しかし、そう悲観的になることもないかもしれない。我々は芸術という武器を持っている。それは感性であり、創造の領域だ。知り得ない宇宙の先を我々は知り得る。知らないことを知るとはどういうことだろうか。創造するとはどういったことだろうか。日頃から、情報化された記号と写真を現実と思い込んでいる現代だから、“知っているつもり”がいつのまにか“知っている”になる。こういった時代は本当に恐いと思う。だから、芸術とは合理性の反対側にあり、その不確定性と無限性に対して僕は生きるための力を見つけることが出来る。

▲ページトップへ戻る

▲columnTOPへ