Column

2014 . 9 . 12

夏の暑かった日、我が家の水槽のウーパールーパーのウーとパーがほぼ同時に死んでしまいました。原因はよく分かりませんが、たぶん暑さのせいではないかと思っています。ショックでしばらく水槽はそのまま放ってあったのですが、最近気を取り直してフィルターを交換し、水を補充してあらたにメダカとベタを飼うことにしました。その夜、あらためて水槽を眺めていて、ウーパールーパーに較べて何だか見ていて楽しかったのですが、その理由は動きがあるからだなと思いました。ウーパールーパーは、基本的にはじっとしていてあまり動きません。メダカは常にせわしなく泳いでいます。メダカを見る目は、最初のうちはその個体を追っていたのですが、そのうち面倒になって水槽全体をひとつの風景としてただ、ぼんやり見るようになります。照らす光を拡散しそのグラデーションに揺らぎという動きを水槽全体に投影する水の動きや、それと同調するようにうごめく水草が陰影をつくりだし、キラキラと光る葉は水の中にいてまるで生命そのものです。そしてその狭間を縫うようにメダカが俊敏に、ベタはぬらぬらと泳ぎ、局部的、あるいは短期的にはそれぞれがそれぞれの内在されたリズムに従っているようにも見えますが、全体的には結局そこにルールを見いだすことは出来ず、我々はその個体を追うことを諦め、全体をぼーっと見ることになるのでしょう。全体をぼーと見ることを許す何か。僕たちはぼーっと見ることによってそこから何かを得ているはずです。機械的なリズムに従って単調な動きがそこに展開していたとすれば、きっとすぐに退屈になって、ぼーっと見ることをやめてしまうはずですから。

偶有性の支配する生命という系は、我々の考える計画性という意識のレベルを遥かに超え、もっと全く次元の違うルールに従っているのかもしれません。僕はその根源的な何かをいつも求めていて、つまり普遍的な価値観がきっとあるはずだと信じているのですが、それを見つけることはとても困難です。そんなものは無いのかもしれません。あるいは、私達が人間である限り、分からないことなのかもしれません。しかしはっきり言えることは、結局のところ自分自身である生命体が抱え込んでいる原理、つまり偶有性(予測不可能性と僕はよんでいます)が生きる力であるということ。それは根本であり、この様々な生命が営む生命世界の存在理由でもあるということです。現代社会における意識が支配する世界とはむしろ正反対かもしれません。しかしそれは幻想なのだと思います。意識は幻想です。それを現実と思うところからストレスが生まれます。なぜ水槽をぼーっと見るかは、そんなことから意味を見いだすことが出来そうです。

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