Column

2019 . 12 . 27

今年の冬は例年になく晴天が続かない様子ですが、時に曇りの隙間から透き通るような青い空が顔をのぞかせることがあり、その美しさにただ見入ってしまうことがあります。今朝もそうでした。空を見上げながら通勤していると車にひかれそうになって危ないのですが、気持ちが空に吸い込まれそうになってしまいます。事務所を横浜の石川町という山手地区に移転してから、茅ヶ崎の自邸から通勤が必要になりました。おかげでいろんなことが出来るのでよいのですが、だいたいキース・ジャレットのソロピアノを聴きながら歩いたり電車に乗って考え事をしています。そしてたまに考えることがあるのですが、その音楽のどこに美があるのだろうかといったことです。今朝の空にも確かに美がありました。でもそれは空にあったというより、雲と青空と雨で濡れて光る路面が生み出す風景が総合的に関連しているようにも思えました。私は建築の設計をしていますが、その空間はいつも美しい空間でありたいと思いながら、美しさがどこにあるのかは分かりません。なぜならば、空間を構成する材料や尺度や均整自体には美しさは無いと思うからです。美しさを見いだすのは、実は空間自体ではなく、空間を感じている主体である自分自身であると気がつくからです。つまり、朝露に濡れた路面や、雲の隙間から見え隠れする青い空は、結局のところ自然物による自然現象に過ぎず、それ自体のどこを探しても、美しさなどは存在してはいません。しかし人はそこに美しさを発見してしまう感受性を持っているようなのです。それがひとと、他の動物を分ける重要な差でもあるのでしょう。今朝も歩きながらキース・ジャレットを聴きながら、彼の指がたたき出す旋律に耳を傾け、その音の連続になぜ美を発見してしまうのかと考えていました。無意味な問いと分かってはいますが、音そのものに美など無いことを承知しつつ、そこに美を発見してしまうことに感動している自分がいることにも気がつきました。演歌や歌謡曲のように、ひとを泣かせようと企てられた旋律や歌詞は存在しません。ただの音の連結です。そこに、無意味性を感じます。そうです。意味なんてないのです。美しさに意味も策略も無いので、そこに政治問題も家庭問題も、なにもありません。お金はなくても、美術館に行くお金も時間もなくても、ひとはどこにでも美を発見して感動して泣くものなのです。ひとは誰かに強制されて感動することは出来ません。美術品にも感動があるわけではありません。ひとは美を発見して感動する感受性を持ってはいますが、それが可能になるには、気持ちの隙間、あるいは油断が必要だと、文学者の橋本治さんが書いていました。現代の社会人の多くは様々なストレスを抱えるがあまり、感動する機会を失っているのかもしれません。とても残念で、損をしていると思うことが多いです。私はたぶんぼーっとしていることが多いので、その隙間に美が沢山入ってくるのだと納得しつつ歩いていました。

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