Column

2007 . 12 . 5

 今大学の授業でビーチハウスの設計課題が出されている。ビーチハウスはとてもシンプルな課題で、単純に言ってしまえば浜辺の風景を読み取り、その美しさや楽しさを増幅するためのシェルターをピュアーに表現すればよい。公共建築はおろか住宅と比較しても、とても単純な機能だけが要求されており、今年は特にトイレや水回りさえ要求からはずされているから、より一層に空間の創造に向けてまっすぐに走ればいい。しかしそこで大きく躓く原因になるのは、美しい空間、ワクワクする様な空間、造形、それを堂々と体当たりして来ない。どこかで、設計に対して理由を求めている感じがする。あるカタチがあるとする。なぜその様なカタチかという問いに対して、砂浜に対してなるべく建物を目立たせたくなかったから・・(絶句)、波の形を象ってみました・・・・・。じゃあ、そのカタチをあなたは、好きじゃないんですか?好きじゃないならやめなさい、とつい言いたくなる。波や風を例えに自由な曲線を用いてももちろんいいが、一旦空間化したらそんな理由付けは一切通用しない。ただあるのはその造形であり、その空間の魅力、力強さ、美しさだけが唯一の存在理由となるはずだ。そこをどうやら分かっていない学生が多い様に思う。カタチを導き出したヒストリーやダイヤグラムがはっきりしていても、それで人は感動しません。意味はどこまでいっても意味。それはたんなる思いこみであり、建築はやはり構築してこそ建築。思いこみはその人が勝手に思うこと。他者が同じ様に思うかどうかは全く別問題だし、他者に強制する様な事があってはなおさらまずい。空間に感動するとは、それを体験した人の内部に泉の如く、何かが湧き出す瞬間を言う。つまり作者の「意図」から遠く離れて、建築は一人歩きをするのだ。空間を構築する力、それを思い出してほしい。幼年期に戻って。

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