21/07/02
前回に続いて本の読み方について思うことを書きます。まずどのようなカテゴリーであれ、ただ読むのではだめです。それを受動的な読み方ということも出来ますが、ぼんやりと眺めるような読み方です。例えば小説ならば味わうように、風景を眺めるように受け入れればよいではないかと言うことも出来ますが、目的によるのかもしれません。つまり、暇つぶしで読むのであればそれでOK。しかしまるで年輪や地層のごとく、その一冊、一頁、一行、あるいはその数秒が積み重なり、自分の実体としての人生に影響を与え、能動的に作用することを期待するのであれば、やはりそれではだめです。例えば夏目漱石の名著を数冊読んだとして、そこから現代にも通じる人間模様をあるある!と感じたとしてそれがどうしたというのでしょうか。まだまだ世界の中の田舎であった日本のその時代に、西洋から流れ込む思想と家族という集団の解体、そして剥き出しにされる個人が時を経て現代の都市住民に突きつけられているコミュニケーションの限界性、逆説的なSNSへの警告メッセージとして捉えることが出来るひとは、そもそも読み方が受動的ではないはずです。ましてや歴史物や啓蒙書の類いは、受動的に読む限りは何の役にもたたない本当の暇つぶしです。なぜならば、歴史を実体験した人はこの世に存在せず、一部の伝わっていること以外の大半、つまり分からないことを作家性で埋めた小説(みたいなもの)ですので、読む主体がその紡ぎ出された架空の風景をリアルに感じ取り、自らの生きてきた生活体験と重ね合わせ、まさにその時代を自らが生きている(かのような)感覚になることが、唯一歴史を引き受け、その歴史書を超えて自ら歴史を生きることに繋がるからです。それはつまり自らが歴史家になることと同じです。歴史書を有意義に読むとは、つまりそのように能動的でクリエイティブな行為なのです。啓蒙書などはもう説明するまでもありませんが、ただ外部に助けを求めて受動的に読んでも一切役に立たないです。苦悩や困難は外にあるのではなく自分の内部に存在します。他者の言うとおりに動いても要はその悩みを抱え込む生き方をしている自分は変化しませんので、結局は悩みが解決することはありません。本質的に能動的に生きるということは何なのか。それは自らの意思で行動することです。当たり前だとおっしゃるでしょう。でもここでもこの文章を軽く読み流さないで、深く読み込んで、理解して、行動に移すことが出来るひとがどのくらいいるのか?という具合に考えてみて下さい。最終的に行動に移すのは他者ではなく自分です。それは誰の責任でもなく自分自身の問題です。政治が、国家が、あるいは時代が、はたまた制度や会社や先生や親の責任ではなく、正真正銘の自分です。誰の責任にも出来ないその選択と行動を、選び取って生きてしまっている最終責任者は、そのひと自身ですからね。その能動的人生という本質を正しく理解しているひとは、後悔などする余地は残されていませんから幸せなはずです。全て自分の選び取った人生ですから。常に、誰かの責任に押しつけようとする都市住民の性癖、時に自分の人生すら外部の責任にしたがるひとは、生涯、悔やみ不幸な人生を歩むのではないでしょうか。そのために、より良く生きるために読書は必須だと思いますし、知識を得るためではない、能動的人生を誘発するチャンスとしての読書というものを親が子供に教えないといけません。