12/05/01
2012 . 5 . 1
現場で解体工事を監理しながら解体することと新築について考えていた。どんなに古くて薄汚れていたとしても、いつかは誰かが計画的に秩序立って構築したはずのものを、今こうして壊しているには様々な理由がある訳で、その多くは物的理由によるものではなくて人の意識の作り出した「意味」の転倒による理由であろう。だから物の集積としての建築を素朴に考えてみるとまだまだ使える場合が多い。というか、ほとんど全てに近くそうなのです。建築を構築する一つ一つのパーツを丁寧に観察すると、ほとんどは新築時と何ら変化していないことがよく分かるから。どこがダメになるかと言えば、パーツとパーツを繋いでいる部分。つまりディテールの発生する箇所からまずはダメになる。物と物を繋ぎ止めて、統合することで一個の建築物として完成するから、繋ぎ止めるためのディテールにはメンテナンスが必要になる。車で言えばガスケットやパッキン、冷却系のホースやバッテリー、タイヤ、オイル等々。それらの交換を一切怠ると最新の車でも何年かすれば動かなくなる。お風呂のタイルは30年経っても綺麗なままだが、タイルとタイルを繋ぐ目地が完全に薄汚れているでしょ。
ところで、新築することは秩序の創出であり、解体はその秩序を乱しエントロピーを増大させるからやめた方がいいのでは?と安易に考えてしまいそうだが、よく考えてみれば建築する行為自体が長い目でみたら確実にエントロピーを増大させていることは間違いなく、解体する行為は建築する工事の先ではなくて後の行為なんですね。なぜならば建築しなければ解体の必要もないですから。200年耐える住宅を推進してストックを増やす行政のやり方はそういった意味に於いては根本が間違っていて、本当はこれ以上増やしてはいけないと思う。そうではなくて、ディテールまで愛着をもってメンテナンスしていく精神状態をつくり出すこと、あるいはそういった精神状態にさせる建築に価値を見いだすことが大切なはずです。当たり前ですが、その価値を「デザイン」と言ったりします。長く残るものは、「丈夫なもの」ではなく、「好きなもの」であることくらい、本当は誰でも分かっているはずですし。